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2012.05.27 Sunday 
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『超新撰21』についてのmemo3
「研究者は文筆業である」と、とある理学部の准教授が言いました。その理由は「研究者の仕事は、現在まで蓄積された知に新しく自分自身の知を積み重ねること」であり「知の蓄積を新たに加えるためには論文を書くしかない」からだそうです。

ここ十年足らずで科学者の論文の投稿数は膨大に増えたと言います。かつてはいちいち専門の論文掲載雑誌の編集者がゲラを組み、校正を行ってくれていましたし、活字にするためにはそれなりの内容で論文を書こうという研究者が多かった。しかし、現代は全くちがいます。論文掲載雑誌によっては研究者が電子ファイルを送り編集者はページの無駄がないよう整形するのみ。ベテランの編集者いらずの編集作業です。一方、研究者は科学研究費の確保のために、論文投稿数を競い合うようにもなっているようです。電子書籍販売の話題が目新しくも感じられる昨今ですが、論文の場合、何年も前から無料でpdfファイルが閲覧できる状態にありました。2011年以降ではそのような傾向は加速し、無料電子書籍が膨大に、時々刻々と世界に出回るようになるでしょう。

そういった状況に置かれると、文章が活字になった(電子ファイルになった)だけでは全くステータスになりません。結果、何が起こるか、主要科学雑誌への掲載が科学者のレベルの指標とされるようになります。「Nature」「Science」のブランド化がより顕著に意識されるようになるわけです。

おそらく、この「膨大と増える論文数」の箇所に俳句の状況を重ね合わせる人も少なくないでしょう。ウェブ上にアップロードされる俳句が今後どこまで増大していくのか。しかも膨大ですから、それが本当に優れたものかの判定が追いつくわけもない。「消費時代の詩」の的確な表現のされ方とは、表現が食いつぶされていくという点にあるのではなく、膨大な作品に対してキャパシティオーバー気味の査定者(人間でなくてもシステムでもいいんですが)が敏感に反応できるテンプレートに巧く乗り込んだ詩のことを言うのかもしれない、とふと考えるわけです。(このあたり「消費時代の詩」(外山一機)へのレスポンス)

表現の再構築というとパッチワーク的技巧のニュアンスで捉えられがちになるのですが、そうではなく、既視感や古典的情趣の埒内で捉えきれる文体をいかに「鮮やかに」再構築しうるか、という意志こそが、消費時代の詩の根底になければいけない気がします。それは、新鮮さと革新性でいえば、新鮮さに重心を置いた詩、とも言えるでしょう。

そういう古典的情趣に自ら突っ込んでいき、そしてそれを突破した作家のはしりとして飴山實がいるのでしょう。よし、今度はそういう感じの方向性を「超伝統派」という呼称にしてはどうかな。いや、こりゃ単純に超現実主義の転用だ(ネーミングセンス!)。

(作品をもっと挙げたいので、つづく。)


2011.01.19 Wednesday 21:00
『超新撰21』 comments(0)
『超新撰21』についてのmemo2
memo1では、清水かおりさんの作品を例にしながら言葉の可塑時間に比例して自我が濃厚に立ち上っている、ということを言っていて。全く逆に可塑時間をほとんど零に収束させる作家もいた。たとえば。それは、波多野爽波。それは、越智友亮。それは、ヨハンシュトラウス(×)。意味内容での区分ではなく、言葉の選定にどれ位こだわって吟味するかどうかの凝り具合が大事ですよ、という。越智友亮の場合も、プライベートな内容ながら、自己表出の点ではかなり淡い。これは種田スガル作品も同様。かなりのスピードで書き下ろしている感じ。で、世界を描かない場合、気持ちだけが言葉になると、歌詞ぽくなる。ポップな感じ。ポップとは脱人称性のことを言う。
 その点は、大谷弘至も脱人称性が強くて、実はその点では、種田スガルと姿勢が似ている。一方は、ミニマムに状況を削り出していく過程で得る脱人称。もう一方は俳句形式に入り込むことで得る脱人称。脱人称なのでどちらも自己が脱落していて、たぶん現代人には入り込みやすい。脱人称が進んでますから、現代は。これもひとつのファンタジーですが、ファンタジー以外に何があるのかという話でもある。

   つつがなく大一文字燃えをはる   大谷弘至

 この『超新撰21』に収録されているのはゼロ年代に作風を確立していった作家達。その点で、ゼロ年代らしさでなく、ゼロ年代らしさのなかの問題点、欠点がより強く反映されているのではないかな、と考えます。たとえば、自己表現のゆくえが、世界にも自己にも回収されずに宙にふわふわ漂っている現象とか。で、ふわふわした感の作家を挙げると、上田信治さんですね。

   電線にあるくるくるとした部分   上田信治

飛躍しすぎですが、上田さんはかなり意識的に自己をどこに投影すべきかという問題に取り組んでいるのではないか。そんな気がしました。
 ただ、一読者としては「言葉と世界が俳句形式に申し分なく収まっていることで、穏やかな世界を構築しえている」のは、安心できていいですね。読みたくなる方向性ですね。恍惚派と名づけましょうか。すぐ消えそうな呼称ですね。きっと自己模倣に陥りやすい方向だから。抒情にかぶさりやすい感じになるので、時間を経ると、やや負の恍惚にシフトせざるを得ない作り方かもしれません。(まだまだ続きます)


2011.01.18 Tuesday 23:45
『超新撰21』 comments(0)
『超新撰21』についてのmemo1
 『新撰21』に続く邑書林刊のアンソロジー『超新撰21』が出ました。50歳以下の俳人21人による百句集成です。そのうちの著者に昨年の末からはやばやと送っていただき(上田信治さんに感謝します)、かといって特に書評の依頼もないようだったのでゆっくりと読ませてもらっています。
 ついさっき、ひととおり読み終えまして、ふと「このなかから一句選ぶなら、どれがいいか」と考えました。すると、案外やすやすと次の句に決定しました。

  星飛ぶや碇届かぬ海の底   ドゥーグル・J・リンズィー

無季なのですが。「星飛ぶ」を「流れ星」と見るむきもあるかもしれませんが、ここは超季的に捉えたいところです。類似した作品は、と言われれば、高柳克弘第一句集『未踏』に

 青梅雨や櫂のとどかぬ水底も   高柳克弘

があるのですが、高柳作品は「櫂」と「水底」という情緒的なパーツを、「青梅雨」でバランスさせている巧みさがあるのに対し、ドゥーグル作品は「星」「碇」「海」とイメージの足し算で作っているわけです。巧まざる重厚さ、というのでしょうか。足してばかりではくどくなるリスクを承知でその羅列を選ばせる意志、という点で「星」<「青梅雨」というきもちです。
 小川軽舟さんは百句にするとうーんですね。せいかくに言えばおもしろくないのではなく句集で読んだほうがずっとおもしろかったということです。既刊二句集から秀句を百句抽出したら、まちがいなく平均点は高くなるはず、なのですが、実際はそうでもない。小川軽舟作品の平均作のくりかえしの中に軽舟独特の詩情が隠されていることを、『手帖』の読者はきっと感じるはずです。それは、たとえればクラシックの長い演奏時間のなかに淀む抑揚のようなものです。
 だから21人でベスト300句の勝負をすれば、きっと圧倒的な差をつけて小川軽舟がナンバー1でしょう。その点百句集成で丁度よかったのは、猿丸兄やんだったなぁとつくづく思うものでした。これは身贔屓と思ってください。
 清水かおりさんの作品は、作った順が見えてくるような作品です。ある程度何かによりかからないと(季語など)そうなるんかな、と考えています。「だったら作った順を指摘してみろや」と言われそうですけども。

 かの鳥があばらを抜ける明るい蝕   清水かおり

たとえばこの作品では、「蝕」→「明るい蝕」→「かの鳥が       明るい蝕」→「かの鳥が   を抜ける明るい蝕」という順で構築されていったんではないか。そんな感じがします。これは勘ですので、理由はありません。折角引用してそんな句かいな、もっといい句あるでーと言われればそうなんすが、そういう構築のされ方ちゅうのは本来作家が消していきたい道筋なんじゃないかと思います。たとえば、意味を脱構築的に構築しようと頑張りすぎて、その頑張りに作っている人の姿勢がありありと投影されてしまっているんですね。そういう意味では、清水さんの作品は自我濃いめです。ラーメンの味濃いめ、みたいな感じになってしまいましたが。(信治さんのはmemo2に書きます。ジャスタミニット!)


2011.01.18 Tuesday 00:55
『超新撰21』 comments(0)
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