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一定期間更新がないため広告を表示しています 2012.05.27 Sunday
- - 『超新撰21』についてのmemo2
memo1では、清水かおりさんの作品を例にしながら言葉の可塑時間に比例して自我が濃厚に立ち上っている、ということを言っていて。全く逆に可塑時間をほとんど零に収束させる作家もいた。たとえば。それは、波多野爽波。それは、越智友亮。それは、ヨハンシュトラウス(×)。意味内容での区分ではなく、言葉の選定にどれ位こだわって吟味するかどうかの凝り具合が大事ですよ、という。越智友亮の場合も、プライベートな内容ながら、自己表出の点ではかなり淡い。これは種田スガル作品も同様。かなりのスピードで書き下ろしている感じ。で、世界を描かない場合、気持ちだけが言葉になると、歌詞ぽくなる。ポップな感じ。ポップとは脱人称性のことを言う。
その点は、大谷弘至も脱人称性が強くて、実はその点では、種田スガルと姿勢が似ている。一方は、ミニマムに状況を削り出していく過程で得る脱人称。もう一方は俳句形式に入り込むことで得る脱人称。脱人称なのでどちらも自己が脱落していて、たぶん現代人には入り込みやすい。脱人称が進んでますから、現代は。これもひとつのファンタジーですが、ファンタジー以外に何があるのかという話でもある。 つつがなく大一文字燃えをはる 大谷弘至 この『超新撰21』に収録されているのはゼロ年代に作風を確立していった作家達。その点で、ゼロ年代らしさでなく、ゼロ年代らしさのなかの問題点、欠点がより強く反映されているのではないかな、と考えます。たとえば、自己表現のゆくえが、世界にも自己にも回収されずに宙にふわふわ漂っている現象とか。で、ふわふわした感の作家を挙げると、上田信治さんですね。 電線にあるくるくるとした部分 上田信治 飛躍しすぎですが、上田さんはかなり意識的に自己をどこに投影すべきかという問題に取り組んでいるのではないか。そんな気がしました。 ただ、一読者としては「言葉と世界が俳句形式に申し分なく収まっていることで、穏やかな世界を構築しえている」のは、安心できていいですね。読みたくなる方向性ですね。恍惚派と名づけましょうか。すぐ消えそうな呼称ですね。きっと自己模倣に陥りやすい方向だから。抒情にかぶさりやすい感じになるので、時間を経ると、やや負の恍惚にシフトせざるを得ない作り方かもしれません。(まだまだ続きます) スポンサーサイト
2012.05.27 Sunday 23:45
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