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2012.05.27 Sunday 
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うがちよみ

ことごとく未踏なりけり冬の星   睫克弘

句集『未踏』より巻頭の一句。
人類は月以外の他天体に足を踏み入れたことがない。
夜空に輝く星はすべて見ることはできても
触ることのできない存在である。

そのように読み解くと冬の星の説明に終始するが、
現代俳句は「けり」のあとに深い意味の切れを生じさせる文法をもつ。

その読みを適用すれば、冬の星はあくまで従の役割を担い、
主題は、はるかなるものへの憧れのこころとなる。
とすれば、この「未踏」の一語は天体のみならず、
文学的、藝術的なものへの憧れのこころに通じてゆこう。

作者は現在俳句界の屈指の若手。
俳句研究賞受賞以後、「凛然たる青春」にて俳人協会評論新人賞、
第一句集『未踏』にて田中裕明賞受賞と、
花々しい新人の栄誉を幾つも得る俊才。
そのような背景を知れば、
この句に完成度の高い青春詠としての読みを行うのは、
自然なことなのかも知れない。

とは言え、私はこの青春性を感じとる読みに与しない。
扱われるモティーフこそいかにも青春のふうを装ってはいるが
実はそうではないと思う。私はこの詠嘆を示す「けり」に、
青春詠らしからぬ「割り切り」の境地を感じとる。
そして、そのことがこの句を青春詠と見なすことを私にためらわせる。
俗っぽく言えば、「青春がそんなカンタンなものであってタマルカ」なのである。
私のイメージする典型的青春詠は、

向日葵の蕊を見るとき海消えし   芝不器男

などで、この下五の「し」の物欲しげな感覚、断定に徹することのできない、
認識の「あやふやさ」にこそ青春の精神性が宿っていると思う。
その「あやふやさ」は、言い換えれば世界の存在を信じきれていない精神状態、
世界に馴れきっていない精神の幼さをいう。
そして、そのような不安定さの中では、「私」が極端に独断的になったり、
極端に世界と親和的になったりする。

たとえば、塚本邦雄はアンソロジー「清唱千首」において、「われのみぞ悲しとは思ふ波の寄る山の額に雪の降れれば(源實朝)」の歌を挙げ、

崎鼻の雪、しきりに降りつつある雪を遠望して何を「悲しとは思ふ」のか。しかも「われのみ」と限定するのか。無限定の、無条件の述志感懐は、ただ黙して受取る以外にない。「社頭雪」題の「年積る越の白山知らずとも頭の雪をあはれとは見よ」は白髪の老人ならぬ青年が、老後を想定しての述懐。他にも同趣の老人転身詠は数多収められる。

と解説を加えている。この歌にも、老いが「額に雪」あたりに匂っているが、このような「老い」を主題にしたものは、実は逆説的に「青春」を意識させるものだ。
老いゆく時間の遅速を知らぬ青年實朝のナイーブさがあってこそ、
「われのみ」と言った独断も生まれようもの。

だからこそ、「未踏」の句には、
青春などはいずこ、
括弧書きの青春詠を成した大人らしいクレバーさが見え隠れする。
私は一方でこの割り切り方に慄くし、
そして一方で、作者のはるかなるものへの憧れが
作者自身のクレバーさで抑え込まれてしまった印象に、すこし、かなしむ。

なぜか。

そのクレバーさは、
「でも、結局無理なんだろうけどさ」
と、いう、諦観のような、
世界に馴れたオトナの冷静な感性に通じているから。

で、ある。



2011.03.27 Sunday 15:16
Katsuhiro Takayanagi comments(0)
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2012.05.27 Sunday 15:16
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