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2012.05.27 Sunday 
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『川柳×薔薇』
ふらんす堂から、『川柳×薔薇』(樋口由紀子)が刊行された。

ふらんす堂のホームページによると川柳作家による「エッセイ集」
という位置付けではあるものの、
本著は主に、初出が俳句や川柳の雑誌に寄稿した文章を集めたものであるから、
あるいは評論集といってもさしつかえないかもしれない。

この著作の大まかな内容としては
川柳論(犠蓮法俳人と柳人の句集評(蕎蓮砲蛤邁範澄吻珪蓮法
絃呂魯┘奪札い剖瓩ぁ∈佞韻申颪言葉での論考(絃蓮法△硲瓦弔両藁てから成る。

ここで、なぜ川柳の作家が俳句を論じるのか、
という疑問があるかもしれない。

しかし、それは実は大した問題ではない。
「言葉を扱う表現者」というフラットな地点から、彼女は
彼女のありったけのセンスを持って、
言葉を(あるいは詩を)論じようとしているにすぎない。

そもそも、川柳作家と俳句作家両者の隔たりは、現在それほど広くない。

いま、一般の読者が現代の川柳作家の作品を、
一般的な「サラリーマン川柳」のイメージを前提にして読もうとすると、
面食らう可能性は高い。

それは、邑書林から刊行されているセレクション柳人シリーズの
いくつかを読んでもわかることで、
現代の川柳には、近代以降の他の文藝ジャンルと同様
「私性」を含めつつ展開してきた歴史があり、
その結果、なかには歴と一行詩とも呼びうるような作品も存在する。

あるいはまたその傾向は現代俳句の系譜の一つにも確かにあり、
「文学」の名のもとに両者の求めるものが似通ってきた、ということが言えるだろう。

この本の著者である樋口由紀子さんは柳人ではあるけれども、
それ以前に一表現者として、言葉に対し意識的でいることに、
ひじょうに重きを置く。

それは、本書の中の

「どこかにあった俳句をなぞっているだけのようなものが上手い俳句と
認められていることもある」
「みんなお行儀よく優等生で無理は決してせず横並びに無難に詠まれている」

などの言葉からも窺える。
本人としては大前提でしかない自己表現への拘りに対し、
多くの俳句作品が怠慢なまでに無意識的であるからだろうか、
その言葉には、少しの怒りのようなものさえ、感じられもする。

ここでその原因を探るとすれば、
全く俳句形式と等しい韻律のもと、季語の制約から全く解放されている分、
それだけ「文学」色を強く表出できる強みが川柳にあるとも言えるだろう。

(私が読んでも表現のテクスチャーのレベルは
川柳の方が俳句よりずっと高いかもしれないと思うことがある)

逆に、
近代以降の文藝の中でも
俳句形式が季語というデータベースに胡坐を掻いてしまいやすい分、
その作者がその語彙をなぜ使いたいのかを
ないがしろにしたまま、作句を続けてしまう可能性が高いのかもしれない。

ともあれ、表現の求道者である樋口さんは、
私が論じるに躊躇するような
攝津幸彦に対しても、ずいずいと筆を進めていく。
そして、その筆の運びの快活さが、私にはとても心地よい。

「攝津の俳句を読むとしばしば彼の時間の中にいるのだと感じる。
他人の時間の中にいることが心地よいとはいままで思ったことがなかったが、
彼の思考ペースにはまると妙に気持ちいい」

俳人には、「俳人格」という言葉が示す通り、
俳句に俳句らしさを無意識に、本能的に求めるところがある。
その慣習に馴れきっているところで、上のような言葉に出くわすと、
(文章の快活さに対する心地よさと同時にまた)
私は全く頭が上がらなくなったりもする。


(『川柳×薔薇』は著者から寄贈を受けました。記して感謝致します。)


2011.04.27 Wednesday 22:45
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2012.05.27 Sunday 22:45
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