Calendar
NewEntry
Profile
Category
Archives
Comment
Search
Link
Favorite
Mobile
Sponsored Links
|
スポンサーサイト
一定期間更新がないため広告を表示しています 2012.05.27 Sunday
- - メトロ
風鈴の空は荒星ばかりかな 芝不器男 ・ いきなりですが、いま地下鉄に乗っているとします。 座席にすわっている、とします。 本を読むのではなく、音楽を聴くわけでもなく、ぼんやりと、漫然と地下鉄に乗っている、とします。 窓の外は、おおむね黒い、闇です。暗いです。 そして視線を列車の中に戻します。連結部分の扉を通して隣の車両を見ていてください。 やがて、隣の車両がゆっくりと傾きはじめ、じぶんが座っているのにもかかわらず、 先頭車両まで通路がずっと見渡せるくらいに、地下鉄がしなり、 水平方向にひっぱられます。 缶がころころと、ころがります。 今度は、逆方向に列車がしなり、優先座席の人がよく見えるようになります。 やはり、ひっぱられます。 缶がころころと、ころがります。 いや、とくに、何の比喩という訳でもありません。 徒然草は
水澄みて再見といふさやうなら 田中裕明 ・ 「徒然草(つれづれぐさ)」という、エッセイ集があります。今から何百年前かの、吉田兼好という人のエッセイ集です。その文章を読んでいると、書いた人の強い気がびりびりと伝わってきます。なんだか、ツンツンしています。もしかして泣き顔は見せないほうだったんでしょうか。 もともと「徒然草」はそこら辺に書き散らしてあったものを他の人が集めたものらしいですが、じぶんならば、絶対世に出して欲しくないところです。読み手を意識していない文章というものは、なかなかえぐ味のあるものだ、と思っているのです。話のなかには、なかなか説教じみているものもあるではないですか。そういうのは、あんまり読んでもらっても、書き手としても読み手としてもお互いにハッピーではないような気がするのです。 そういうなかで、じぶんのすきな話は、というと、「大根の恩返し」の話でしょうか。これはそういうタイトルが付いているわけではなく、じぶんが勝手に付けたタイトルなのですが、ようは、薬になると思って毎日大根を食べていた人が、自分の館を襲われたときに、大根が助けてくれたという話です。ストーリーだけでもちょっとおもしろいのですが、この話を思いだすたび、その時代の人は大根が戦ってくれるイメージをどういうふうに抱いていたのか、とても気になります。 あご勇のように面長な人なのか?大根バッジをつけているのか?あるいは、着ているものに大文字のマークがあったのか。 まさか、イニシャルのDが縫いつけてあったわけではないだろうけれども。 もしかして、大根の着ぐるみ的な? 書き捨てていく
あの。この前まであった記事がなくなっていることがありますが、 それは、わたしが記事を捨てているせいなのです。 お気にいりの記事のみのこされていきますので、ご容赦ください。 加速度としての詩情
ちかごろ「加速度としての詩情」というフレーズを考えています。それに対応させて、「変位としての言葉」「速度としての意味」というのもあります。 言葉がそのまま意味になるのは、実はまちがっている。それはわざわざ阿部完市を持ちだすまでもなく、外山滋比古の「修辞的残像」ですでに論理的に語られていることです。ようは、言葉のつらなりこそが意味の発生する源なんだ、そういうことを言っています。 何よりおもしろいのは、「速度」は目に見えるものでしかないですが、「加速度」は力や質量と対応します。意味よりも抽象的な階層にありながら、その反面、詩情は極めて体感的なものでもある。そんなことを言うのに「加速度」という比喩は、なかなかいい言葉なんじゃないか。そんなことを考えています。 因数分解は、しないほうがいいね。
花過の海老の素揚にさつとしほ と作ってみて、そのあと先行作品で因数分解をこころみてみる。 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ 定家 海士の屋は小海老にまじるいとどかな 芭蕉 定家の「花」と「浦の苫屋」の取り合わせと、芭蕉の「海老」と「海士の屋」の取り合わせ。「浦の苫屋」=「海士の屋」なので、「花」と「海老」の取り合わせに。丁度2つの方程式から変数を消去した感じだ。あと、 きぬさやをさつと炒めて朝の皿 長谷川櫂 の「さつと」を拝借してあることに気付く。ついでに、場面の発想もある。古歌と俳諧と俳句を足して3で割った感じ。 あとで気づくと、凹みます。 夜雨
あなたなる夜雨の葛のあなたかな 芝不器男 『芝不器男句集』から。 ・ 写真の美しさに気づいたのは、ブラッサイの写真を見てからだった。 木村伊兵衛のスナップショットにも言えることだが、作家性がうまく写真に溶け込んでいる特徴がある。とくに、夜のパリの霧と街灯のからみ合い方は、異常なまでに官能的だ。 ・ 傘をさしている人の絵を描くとする。肩にかけて傘を持つ男の子を正面から見ると、頭のうしろから八方に傘の骨がのびていくような格好になる。何かちょうど後光がさしているふうになるのだけれども、実際にそうなっている。一方、イデア的な傘のイメージは、つねに横から見たときのイメージだ。半円球状の覆いの部分から柄が垂れている、あのイメージである。こちらはけっして後光をさしたようにはならない。 うーん、つまり、だから、その冷静な目でもって傘を描いてみたわけですよ。「後光みたい」って言ってばかにしないでください。あの、ほんとに。ひとりだけそんなふうに描いちゃったんだけどさ。30人中。 朝の町
花桐にすでに脈打つ朝の町 桂 信子 『新緑』所収。 ・ 外国に出かけたことはない。なのでパスポートもない。 ついでに言うと北海道に出かけたこともない。わたしの父母は結婚して間もなく、北海道に行ったそうだ。それをハネムーンと呼ぶのが一般的だが、どうやらハネムーンとも言えないものだったらしい。というのも、ふたりは何もおしゃべりしなかったらしい。何をやっていたのかよくわからん。とりあえず、旅行から無事に帰ってきたことだけは確かだが。 実家の壁にアイヌの女性の横顔の彫り物が掛けてあったのは、そのせいだろう。しかし、レリーフがやたらデフォルメが効いていて、こわかった。子どもは、よくこわがる。 で、ついこの間北海道の旭川に出かけていたひとから熊肉の缶詰をいただく。ついでにかぼちゃもいただく。かぼちゃは濃い緑色の日本らしいかぼちゃだった。それでもハロウィンなので、両目が三角で歯がやたらと欠けてる感じのやつにしようと思ったのだけれど、ちょっとむずかしそうだ! 最終的にはかぼちゃスープになる予定。あくまで予定。
1/1PAGES
|