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一定期間更新がないため広告を表示しています 2012.05.27 Sunday
- - ラジオ
9月28日、 Haiku Drive と題してゲリラ的にUstream配信を行いました。
ユリイカ10月号「現代俳句の新しい波」に掲載の新作10句の評を中心に、俳句についての質問回答、即興の席題句会などを収録。 生駒大祐、福田若之、藤田哲史の3人が出演しています。 なお、席題句会についてはtwitterで題を応募しました。 視聴者の感想も含めて#haiku_driveで閲覧可能ですので合わせてご覧下さい。 Happy Hallowe'en (2011) Fujita Satoshi 残像
外山さんの文章が、ときどき、うらやましい。韜晦の効き加減がちょうどよくて、言っていることがパンクで。クールな高柳重信って感じだ。 詩歌梁山泊 俳句時評 外山一機「逃鼠の弁」→こちら 内容は、山口優夢句集『残像』について。二〇一〇年現在の「手軽な」生の感覚を、最も率直に俳句作品に結晶させているとのこと。 現代において「いま・ここ」にしかないものを表現するのは難しい。特に都市空間において言えることだが、現代の生活には「いま・ここ」にしかないモノが極端に少ない。日清のカップヌードルは世界中あるし、明日も明後日もセブンイレブンは24時間営業している。僕らの日常生活は、いつでもどこでもあるものばかりにあふれている。 それは逆に言えば、「いま・ここ」がいつでもどこでも体験できるかのように感じられる環境こそが、現代固有の特徴なのだ。『残像』の作品は、そんな現代の不安感をそっくり俳句形式に写している。伝統からも前衛からも切り離されて、「現代俳句」はよりいっそう孤独の陰を深めたようだ。 css
言狩2
馬の瞳も零下に碧む峠口 飯田龍太 この句の季語を「零下」と言っていいのかどうか。摂氏零度より下の気温のことを「零下」と言ったわけだけれど、なかなか強引な言葉の使い方で、こういった類いの言葉の使い方は、平成の俳句には少ない気がする。 たとえば、「炎昼」という季語は山口誓子以来の言葉だし、「万緑」というのも、草田男が漢詩から引っ張り出してきたもので、これも独創に近い。 これらの言葉は、独創といえば格好いいが、その実読者の共感を得にくいという危険もある。しれっとした顔で歳時記に載っているけれど、生まれてたかだか百年にも満たないこれらの言葉は、まだどこか耳馴れない印象。 一方で、これらの言葉は、従来の詩情を拒んで新たな詩情を開拓しようとするときには、むしろ使いよい言葉とも言える。従来なかった言葉に、従来の詩情は無縁だ。新たな言葉によって新たな詩情を表現する。それを誓子や草田男や龍太は狙っていたんだろう。 それは、後になってみればモードかもしれないけれど。 目つむれば欅落葉す夜の谷 飯田龍太 言狩
おとつい。
洗濯しているとき、ふいに「言狩」ということばが思い浮かんだ。ことかり、と読む。辞書には載っていない、自分で勝手につくったことばである。もしかしたら既にあるのかもしれないと思い、googleで検索してみたけれど、やっぱり見つからなかった。しめしめと思い、さっそくブログのタイトルにしてみた。 たぶん、万葉集に出てくる「朝狩(あさかり)」ということばに触発されてのことだろう。岡井隆にも、そういうタイトルの歌集があって、あるいはそれに触発されたのかもしれない。 何にせよ、何か、詩人ぽい! ロック好き
私の家族はべつだん音楽一家というわけでもないのですが、 むかし、父はよく車の中でクラシックをかけていました。 マーラーの「巨人」とか。 幼い私は自然とそれを聴かされていたわけですが、 あまりのヘビーローテーションっぷりと大音量っぷりに クラシックが厭になってしまいました。 月日は流れ、 私が音楽を改めて自分の指向で聴きはじめるようになったのは、高校生のころ。 2000年も過ぎてからで、ちょうど勉強しながらラジオを聴くようになってからでした。 ラジオが情報源だったので、主に日本の楽曲を聴いてました。 なんだか、田舎っぽい! 初期のレミオロメンとか、聴いてましたね。 けど、だんだん音が洗練されていったのが物足りなくなって、 聴くのやめちゃって、 上京してからやっと(2000年代後半) ロックンロール・リバイバルと呼ばれるのを聴きはじめて。 んで、最終到着地としてリバティーンズを聴いたあと、 原点回帰というべきビートルズに。 ビートルズは以前からちょいちょい聴いていたわけですが バディ=ホリーあたりも聴きはじめ、 点ではなく、線でそのジャンルを捉えはじめた今日このごろ。 似たものを聴き比べるのも愉しいものです。 a pig
The pig drowned in the soup... (2011) Satoshi Fujita no title
The sketch for reminding the cliff (2011) Satoshi Fujita 本
世界には、<惜しい本>というものが存在する。 それは、内容がもの凄くいいのに、外見がメタクソにかっこ悪い本である。 断じて「かっこ悪い本は読まない」という訳ではない。読んでみて、「ううん、惜しい!」なのだ。どうせなら、かっこいい本だったらばもっとよかったのに、と思う。内容だけ読みたいのなら、電子書籍でいっこうに構わないのだ。紙の本を一つのモノとしていとおしみたい。とはいえ、やたらめったら装丁を凝ればいいのか、といえば、そうでもない。 そんなわがままな私の理想は、例えば、いつかどこかの図書館で複写をお願いした19世紀の詩集。 先に言っておくと、その詩集、別段、天金だとか、頁が手で彩色されているというわけではなく、むしろ地味な部類に入るかと思う。ただ、現在よくある書籍とは違って、頁の紙の端が三方とも揃えられていないし、へりの厚みが薄く、紙のかたち自体も長方形からいささかずれた形をしている。要するに、一頁の大きさが手漉きの紙一枚の大きさだ。さらに、印刷されている活字は黒一色、頁のまんなかに印刷部分が集まっていて、その四方には、印刷部分より圧倒的に広い余白がある。 つまり、その本はのちのち周囲を裁ち落として装丁しなおせるように配慮されているのだ。作った人は、その状態が完成品だとは全く思っていなかったのだろう。紙を切ってしまえば元の大きさには戻せない。別の人が自由に装丁しやすいように、紙の大きさを最大限残しておいたのだ。 書いてあるものを大事にしているから、自然に装丁も配慮される。そういう自然体の丁寧さが、何とも好ましい。 そして、自分自身の経験上、そういうものはずっと持っていて飽きがこない。 ・ 「この岸辺露伴が金やチヤホヤされるためにマンガを描いてると思っていたのかァーッ!!ぼくは、『読んでもらうため』にマンガを描いている! 『読んでもらうため』ただそれだけのためだ。単純なただひとつの理由だが、それ以外はどうでもいいのだ!」(岸辺露伴) ひとりよがりのものさし
『ひとりよがりのものさし』(坂田和實著)という本がある。もとは「芸術新潮」の連載の一つで、この本はそれを書籍化したものだ。目白に古道具屋を構える店主が、その独自の選択眼についてお気に入りの品への評をまじえながら語ってくれる。極端なところで言えば、電気製品か何かが入っていた段ボールの梱包材を取り出してきて、「モダニズム建築ぽい!」と拾い上げてしまう。「先入観は捨てよ。さらば開かれん!」という極めてシンプルで、しかしむずかしいことを繰り返し説いてくれる一冊。 人によっては、古道具とかコットウというと、いい印象を持たないかもしれないけれど、百円ショップでコップを買うにしても、幾つか種類があったら自分の目に適う方を選ぶはず。好みなんてのは本来誰もがもっているもの。その好みを突きつめて、モノ選びを拘って拘って拘りまくっているのが、コットウに溺れる人たちなのです、多分。(お前はどうなんだと言われれば、うん、とりあえず、どなたか三億円の当たりくじをば) ふだん、いかにも<製品>といった感じのものに囲まれていると忘れてしまうけれど、ほんとうは厳密に言えば世界には<一点物>しかない。ただ、現代人のわれわれが物狂いのごとく極力似たようなものを作っているだけの話。仮に<製品>だったとしても、使いようによって古び方も人それぞれ。ジーパンのインディゴの褪せ方も体型やポケットに入れるものによってまちまち。褪せたあとの唯一無二のジーパンは、もはやハンドメイドの<一点物>。そんなジーパンをちょっといとおしく思っているとしたら、もしかしたらあなたにもコットウの素質があるのかも。 そう考えると、言葉ってのはなんて笊な表現方法なことか。自分の思い浮かべている唯一無二のイメージの詳細も、言葉に変換した途端、摩滅してしまう。折角拾い上げてきたイメージの微妙な陰翳も、言葉には限界があるから伝わらない。 そんなこと、あなたにはありませんか。 |